甘田入・野田奈川・西の洲干拓の歴史


霞ヶ浦の干拓事業は大正から昭和初期にかけて大きく進展しました。それは、霞ヶ浦の一部を堤防により締め切り、内部を排水して水田を造成するという本格的なものであり、稲敷管内でも広く開発が進められました(下図)。
ここでは、そのなかの浮島周辺(甘田入・野田奈川・西の洲干拓)についてご紹介します。

地勢

稲敷市(旧桜川村)の甘田入・野田奈川・西の洲干拓は霞ヶ浦南岸に位置する面積約470haの干拓地です。

また、浮島の稲敷大橋付近に広がる湿地帯は環境省の特定植物群落として指定され、野鳥の宝庫としても親しまれています。

歴史

浮島は地名が示すとおり、かつては霞ヶ浦に浮かぶ孤島でした。昭和23年に対岸の阿波村と陸路で結ばれるまでは、渡船及び昭和8年に始まる水郷汽船株式会社による潮来-佐原-土浦間の定期船が島の交通手段でした。

明治後期の浮島周辺
(明治39年)

この浮島村周辺の干拓が始まったのは、野田奈川の南西部に深く入り組んだ「甘田入」の干拓が最初であり(昭和23年竣工)、続いて行われた「野田奈川」の干拓によって陸続きになりました(昭和27年竣工)。

戦後まもなくの浮島周辺
(昭和27年)

そして浮島の西部にある「西の洲」が干拓されたことによって島の南側一帯が陸続きとなり、孤島としての姿はすっかり消え、現在の地形となりました(昭和41年竣工)。

今現在の浮島周辺

現在では、霞ヶ浦の浄化対策の一環である国土交通省による大規模浚渫工事と連携して、ほ場整備事業 西の洲・甘田入地区が実施されています。大区画ほ場整備を行うことで、大型機械化や汎用耕地化を図り、近代的営農の確立を目指します。