飯沼干拓の歴史


 

茨城県の南西部、鬼怒川と小貝川の近くに美しい水田地帯が広がっています。この水田地帯ができるまでには、多くの人たちの苦労の歴史がありました。

江戸時代のはじめ、このあたりには約3000ヘクタールの広さの沼 「飯沼」がありました。飯沼は近くの鬼怒川の川底が高かったため、水がなかなか沼の外に流れませんでした。そのために、沼のまわりは湿地(水をふくんだじ めじめした土地)となり、畑の作物まで水腐れ(畑の土の中に水が多すぎるため、作物が腐ってしまうこと)をおこしたり、大雨が降ると、沼のまわりの広い場 所で洪水がおこったりしました。このため、人々は、干拓(湖や沼を埋め立てて陸地にすること)をして、新しく田んぼをつくろうとしましたが、人々のあいだ で話がまとまらず、なかなか工事を行うことはできませんでした。

ところが、江戸幕府の8番目の将軍徳川吉宗の時にお米の生産量を増や すため、新しく田んぼをつくることを人々にすすめました。そのために、吉宗は享保7年(1722年)に新しく田んぼをつくることをすすめたことを書いた高 札(江戸時代に、決まりごとや命令などを書いて町の中にたてた掲示板)を立てたのです。

これを見たのが、飯沼の近くの尾崎村の名主(村のお役人)秋葉佐平太 でした。彼は、ほかの名主と一緒に「新しく田んぼをつくる工事を認めてほしい」と書いた書類を幕府に出しました。それは飯沼から利根川へ水路をつくり、利 根川に飯沼の水を流して飯沼を干拓をするという工事でした。
そして、享保9年(1724年)に幕府が工事をすることを認めたので、次の年の享保10年(1725年)に工事が始まりました。

工事は、まず飯沼から利根入川(今の菅生沼)まで、飯沼の水を流すた めに新しい川(今の飯沼川)をつくって、次に沼の真ん中を南北にとおる堀をつくり、さらに沼へ流れていた仁連川を二つの川に分けて(今の東仁連川)と西仁 連川)、この二つの川の水を新しい田んぼに使うというものでした。
こうして、享保12年(1727年)に工事は完成して、約1525ヘクタールの新しい田んぼができました。

しかしそれからも、浅間山(群馬県と長野県の県境にある山)の噴火で熔岩が利根川の川底に積もり、川底が高くなって洪水がおきたり、地盤沈下がおきて飯沼からの水の流れが悪くなるなどいろいろな苦労がありました。
そのたびに人々は力を合わせて、利根川から飯沼のほうに水が反対に流れるのを防ぐ閘門(こうもん:流れる水の量を調節するためのもの)をつくったり、水 が流れやすいように川底を掘る工事をしたり、ほ場整備事業(離れている田んぼをまとめて作業をしやすくする工事)やかんがい排水事業(田んぼに使う水をひ いたり、反対に田んぼからいらない水を出したりする仕組みをつくる工事)などを行って、今の美しい水田ができあがりました。