鵠戸沼干拓の歴史


大蛇の住む沼

かつてこの地は鵠戸沼という大きな沼で、水の底には大蛇が住むとも伝えられていました。

この沼を干拓(埋立て)して農地を造成する事業は古く嘉永年間(1848~1854)、関宿藩の試みにさかのぼります。
しかし、当時は利根川に堤防が無く、この試みは失敗に終わります。
その後大正時代(1912~1926)初期にも、地元有志の間で干拓が企画され、多くの賛同を得たものの、工事にかかる莫大なお金の工面ができず実現には至りませんでした。

昭和に入り戦争が激しくなり食料不足が深刻となってくるなかで、昭和15(1940)年に農地開発法が施行され、農地の開発を進める国の機関として農地開発営団が設立されました。

鵠戸沼干拓への地元の強い熱意が実り、昭和16(1941)年、鵠戸沼干拓事業が農地開発営団により採択され、翌17(1942)年から事業が開始し、戦時下の物資人力共に乏しい中、事業は順調に進んでいました。

昭和20年代、進駐軍による撮影
(左上が鵠戸沼)

ところが、昭和22(1947)年9月15日。わずか15日後の事業完了を目前にしてカスリーン台風の襲来により、完成直前の排水機場をはじめ干拓事業の成果は全てが失われてしまったのです。

事業が9月に完了する予定であったため、農地開発営団は末日には廃止となり、事業は国に引き継がれました。地元住民は鵠戸沼干拓の完成を願いつつも、そ の思想の違いから保守派と革新派に分かれて反目対立を繰り返していたため、事業はしばらく停滞してしまいました。

カスリーン台風による被害
(埼玉県東部 利根川下流河川事務所提供)

そんな中、保守派を代表する藤井嘉一郎氏は、昭和23(1948)年、保守派も革新派も無い「米穫り党」を結成しようと提唱しました。これに革新派を代表する倉持鶴吉氏も賛同し、翌24(1949)年に は地区関係者全員の同意を得るに至りました。「米穫り党」はその後、鵠戸沼干拓期成同盟会として設立され、事業(国営森戸干拓事業)は再び動き出しまし た。そして、昭和29(1954)年、関宿藩による最初の試みから100年を経て、ついに干拓事業は完了したのです。

田園空間整備事業で整備された幹線排水路

水底に住む大蛇のせいか幾度となく失敗に終わった鵠戸沼の干拓は、その後、県営事業に引き継がれ、現在では水田642haを含め931haの優良農地に生まれ変わりました。

県営湛水防除事業で整備された、
鵠戸沼第2湛水防除機場

(本文は、田園空間整備事業 利根下総地区(鵠戸沼工区)における碑文を加筆修正したものです。)