十石堀用水路の歴史


十石堀の概要

十石堀は江戸時代に築造された用水路です。高萩市の大北川支流加露川より取水し、北茨城市西部の山間及び尾根沿いを蛇行しながら、約13km下流の北茨城市磯原町及び中郷町の約47haの農地を潤す貴重な水源となっています。

十石堀用水路位置図

十石堀開削の歴史

水戸領松井村(現在の北茨城市中郷町松井)は、村の東が大北川に接していながら、高台に位置するため用水は天水に頼るのみで、「松岡地理史」に「田地天水ノ村ニテ年々旱損ス」と記されるほど水不足に苦しんだ村でした。
十石堀を開削した沼田惣左衛門は松井村の庄屋の惣領で、日頃から農民の困窮を見ていた惣左衛門は、何かと用水を引いてくることは出来ないかと苦慮していました。
惣左衛門は、村の水不足の解消と新田開発を目的に、近隣の山中をくまなく調査し、大北川より約6km上流の支流加露川から水を引く計画をまとめ、松井村 と同じく水不足に悩む5村の人々からの協力を得て、高萩市下手綱にあった松岡藩へ工事の許可を願い出ましたが、その計画は水路が山の尾根筋を通るという、 余りにも困難な計画であったため、許可を得ることは出来ませんでした。それでも諦めきれなかった惣左衛門は、近くの御岩神社の境内に磔柱をたて、竹槍を研 ぐ石臼を準備し、「失敗の時は死を持って償う覚悟である」と命がけの決意を示し、ついに工事の許可を得たといいます。
工事は寛文8年(1668年)8月に着工し、翌年3月に完了しましたが,当時の技術で山筋約13kmを開削するのは大変な苦労で、工事には様々な工夫を しながら工事に取り組んでいます。例えば測量では1m程度の竹筒に水を入れて水平を測り、提灯の明かりによって高低差や距離を測ったといいます。ま た、400間(約730m)余りの岩盤が出た箇所では岩の上で火を焚き、それに水をかけ急激に冷やすことによって亀裂を生じさせてから砕くという作業を行 いながら、水路を開削したそうです。
このような努力の末、十石堀は開削されましたが、最初の通水では岩盤の切れ目や砂地から漏水し、水を下流まで届けることができなかったため、惣左衛門は 灰と粘土を混ぜたものを水路に塗り込み漏水を防止するという工夫を施し、ついに13kmにおよぶ用水路を完成させました。
 寛文9年(1669年)の「松井村新田開検地改帳」によると、惣左衛門は、これまでの尽力した功を賞され、「主計(かずえ)」の名と新田の中から9石7 斗8升5合(=約十石)の地が与えられ、この用水は「十石堀」と称されるようになりました。

十石堀用水路と農業農村整備事業

このような先人の努力の末に開削された十石堀は、現在も路線の半分以上が土水路のままであり、開削当時の面影を色濃く残していますが、急峻な山中を尾根沿 いに流下しているため、法面の浸食や堆砂による通水能力が低下し、毎年のように盛土部において越水被害が生じるなど、整備の必要性が出てきています。その ため、現在までに様々な土地改良事業が実施されています。
最近では平成14年度より県営農村振興総合整備事業で約1.8kmを整備することとしています。
また、平成8年度に整備された十石親水公園は、分水工までの遊歩道が整備され、水に親しみながら十石堀の歴史や農業用施設の役割を学ぶことのできる場となっています。

十石堀