千波湖と備前掘について


千波湖はどんなところでしょう?

千波湖は日本三名園(日本で有名な三つの庭園、ほかに兼六園:石川県と後楽園:岡山県がある)の一つである偕楽園の下に広がる淡水湖(水に塩がふくまれていない湖)で、平均の深さが1mぐらいしかないため、本当は沼ですが、今では「千波湖」と呼ばれています。

歴史

今の千波湖 は、昔に比べて干拓(湖や沼を埋め立てて陸地にすること)などで小さくなったと言われています。どのくらい小さくなったのでしょうか。下の地図は、今(水 色)と大正4年(1914年)(灰色)の千波湖の大きさを表しています。だいたい3分の1くらいになっています。

千波湖の干拓工事は、江戸時代に始まりました。慶長14年(1609年)年に徳川頼房が最初の水戸藩主となったときには、城南地域(今の水戸市南部)では、毎年のように干害(雨が少なく水が足りなくなって米などができなくなること)に悩まされていました。
そこで、藩主は伊奈備前守忠次に命じて、千波湖の水を涸沼川に注ぐように堀を作りました。この堀は工事をした伊奈備前守の名前をとって「備前掘」と呼ば れています。これによって、城南地域の水が豊かになり、米もたくさん取れるようになりました。
 大正時代になって、千波湖は泥がたまったりしてきたので、下沼(現在の水戸市役所がある水戸市中央のあたり)を埋め立てました。その時に千波湖の水が少 なくなった分、那珂川に用水機場(川から水をとる場所)を作って、水を確保しました。さらに、上沼(現在の千波湖)を公園として整備して、今の千波湖の姿 になりました。

千波湖にまつわる茨城の民話

むかしむかし、だいだら坊という大きな男が大足(今の内原町)に住んでいました。村には高い山があって日陰の所では何も作れませんでした。そこで、だいだら坊は村人を助けようとこの山を北へ移してしまいました。
ところが、山を移すときにあまり深く掘り過ぎたので、雨が降ると水がたまり洪水となって、村人は困っていました。
だいだら坊は、下流の岡を引き裂いて壊して水が流れるようにして、その下流に湖をつくりました。人々は岡を引き裂いた川なので「さく川」と呼んでいましたが、いつしか「桜川」というようになりました。
 そして、このときの湖が千波湖と言われています。

千波湖のこれから

千波湖は、干拓や生活排水などで、水をきれいにする力が弱くなって、アオコ(水の中で育つ緑色の植物)などが発しています。千波湖をきれいにするために、茨城県と水戸市では、那珂川の水を千波湖に流しています。
千波湖は、昔は水戸城を守る堀として、また農業に使う水をためておく場所として長く利用されてきました。さらには、偕楽園の梅を引き立てる景色として大切なものです。
千波湖をみんなの力でもっときれいにして、未来の人たちに残していきましょう。